一貫した主張をしていないといけないような感覚

思考実験。

真面目な話になってしまいそうなので、「うどんが好き」で置き換えて考える。

昨日、誰かにうどんが好きだと言ったら、今日もうどんが好きな人として振る舞わないとおかしいんじゃないかという気がする。
そういう感覚に名前はついているのだろうか。

実はうどんが嫌いだったけど、話を合わせてうどんが好きといっていただけだと、優柔不断っぽい。
ただし、うどんが好きな人を慮った発言の可能性もある。

思いつきでうどんが好きといっただけだったら、物事をよく考えない適当な人っぽい。
あるいは子供っぽい。

うどんが好きといったけど、よく考えたらうどんは好きじゃなかったりすると、自分のことすら良くわかってない人的な感じ?
飯にかける汁の量すら、、、とか言われてしまいそう。

昨日はうどんがすごい好きだったけど、今日はうどんがものすごく嫌いになってたりすると、別人になってしまったみたいで、ちょっと怖い。
昨日の自分と今日の自分が連続していない。

たかがうどんのことなので、自由にすれば良いんだけど、世の中うどんのことばかりじゃないかもしれない。
うどん以外のことだって、好き勝手自由にすれば良いんだけど、うまいロジックが思いつかない。

うどんは好きだけど、好きなうどんは力強い歯ごたえがあるやつだ。
伊勢うどんは別カテゴリーとして好き。

結局のところ、全てを好きになれる人が最強だ。
一貫性が崩れる余地がないので。

うどん