『ダンジョン飯』7 巻読んだ

面白かった。

相変わらず絵が上手。
7 巻は全編丁寧で、描き込みも多く、クオリティが高くて良かった。

特に 69p 上段のエルフの集合絵。
ファンタジーっぽいというか、別世界感があるというか、常識を共有していない隔たりある存在的な感じが良い。

個人的に、『ダンジョン飯』と『とんがり帽子のアトリエ』は絵が綺麗なところが大きな魅力の一つ。
このまま続いて欲しい。

お話も面白かった。
ちゃんと毎話、食事に絡めたお話作りをしていてすごい。
ファンタジー縛り、ダンジョン縛り、モンスター縛りで、これだけのネタを思いつくのはすごい。
いわゆるウミガメのスープ的なお話も違和感なく自然にストーリーに取り込めているように思いました。

個人的に刺さったのは、イヅツミの好き嫌いの話。
「なんで好きなことをしない?(意訳)」
「嫌いなものを避けていたら目的にたどり着けないから(意訳)」

食事や役割分担に絡めた話にはなっていますが、内容的には「目標を達成するために必要であれば嫌なことも受け入れるか(プラクティカル)、それとも好きなことだけを選択して、ゴールへの道が険しくなることを受け入れるか」。
仕事でも創作でもスポーツでも、こだわりを持って目標に向かおうとしている人には共感できる話題だと思います。

加えて、演出も良かった。
現実時間でマルシルとイヅツミに対話をさせつつ、そこでは解決せずに、一旦別の話を挟んで、わだかまりを抱いていた食事の中での気づきから、イヅツミの回想の中でタデに「迷子にならないでね」と語らせるのは良い流れだなと思いました。

「(マルシルとの)対立 → (マルシルの丁寧な)説明 → (イヅツミの内心への)定着 → 時間経過・場面転換 → (食事の場での)自己体験 → (すでに受容済みの経験からの)自己抽出 → (対立案の)受容」という心の動かし方が自然でした。

人は説得ですぐに心が変わるわけではなく、自ら納得する体験が必要。

こういう風に展開が丁寧だと、読んだ時の納得感も大きいですね。

最終話のオチも良かった。
トロールになってしまうのでしょうか。
次巻が楽しみ。

補足

  • 剣に翼の飾りがついているのは第 2 話に描写がある
  • 翼のある獅子の壁装飾は第 4 話に登場している

作りたい と 作りたくない

作りたい と 作りたくない

作りたい

  • 欲しいもの、見たいものがある
  • ただ、誰もそれを作っていない
  • 自分で作ろう
  • こんなのがあったら最高

作りたくない

  • 欲しいもの、見たいものがある
  • ただ、誰もそれを作っていない
  • 自分で作るのは大変そうだ
  • 誰かが作ってくれたら最高

その違いは何か。

作りたくなるもの

  • 簡単に作れそうなもの。
  • 自分にアイデアがあるもの。
  • 作ることでより深く理解できるとき。
  • こだわりが強いもの。

作りたくないもの

  • 作るのが大変そうなもの
  • 自分が思いつかなかったようなアイデアを見せて欲しいとき
  • 自分で作ったら驚きが消えてしまいそうなもの
  • すでに似たようなものがあって、誰かが作ってくれそうなもの

作る力

作りたいものだけを作ろうとすると、作る力を培うのが難しい。
作るのが大変そうなものはずっと大変そうなまま。
なので、作りたくないものを避けて通るのも良くない。
作るための筋力作りが必要。

ただし、作りたくないものを作るのは気持ちの負荷が大きい。
作りたくないものばかりを作っていると、作ること自体が嫌になる。
なので、作りたいものを作ることが大事。
作りたい気持ちを育てることが必要。

作る工夫

作りたくないものを気落ちせずに作る工夫があるといい。
例えば、作る対象にフォーカスせずに、作業的に制作を進めることができれば、心理的負荷は小さい。
練習問題を解く感じのドリル式で。

教科書が市販されていて、練習問題がすぐに見つかるならそれでいい。
ない場合は、自分で課題を考える必要がある。

一番簡単な課題はすでにあるものを真似ることかな。
模写したり、同じ機能のものを自分で作ってみたり。

ただし、真似をすることも簡単ではない。
何を真似するのか考える必要がある。

自分のスキルと乖離した、難しいものは真似られない。
自分が嫌いなものを真似しても、モチベーションが続かない。
自分の目標に沿っていないものは真似しても意味がない。

好きで平易なものを普段からたくさん探しておく必要がある。
好きの間口が広ければ、見つけるのはより簡単になる。
たくさんの作品に触れていれば、好きなものを見つけられる機会も増える。

もし見つからなかったら、好きではないけど力になるものを受け入れることが必要。
嫌いの壁が低ければ、受け入れるのもより簡単になる。
たくさんの苦手を許容できれば、目標への距離を小さくすることができる。

良い先生や競争相手に恵まれるのはすごい幸運。
自分が知らない良いものをタイミングよく与えてくれる可能性がある。

現状

好きなものを好きなように作って良い感じに上達したい。
苦手なものはやっぱり苦手。
ひとりでコツコツやりたい。

上手くいってないのでなんとかしたい気持ちはある。
時間はあるけど、時間はない。
だらだらサボってしまう。。

『約束のネバーランド』観た

面白かった。
絵も綺麗で良かった。

重い話なので、観終わるまでに時間がかかってしまった。

個人的に、絶望系の設定は苦手。
作者のご都合をより強く感じてしまう。
登場人物を極端な苦境に立たせておけば、個人個人の動機や心情に関わらず、行動を起こすしかない。
そのため、とりあえずお話を始めることが可能。
最初から葛藤が用意されているので、ドラマを演出するのも容易。

約束のネバーランド』は、イザベラの絶対悪感と、エマの諦めない姿勢が良かった。
落ち着いたノーマンと、クセのあるレイの頭脳班も良かった。
ドンのキレ芸はない方が良かった。

ネタバレが怖いので、ネットの情報は一切入れずに観ていました。

以下、2 期を見るときのための 1 期の備忘録(ネタバレ)。

これから退場する人(クローネ、ノーマン、イザベラ)に時間を割いて丁寧に描いていたのは良かった。
クローネやイザベラは本編のストーリ上は悪役として描くことを徹底し、退場前の描写で悪役ではない姿を見せる手法は上手かった。
本編のストーリーで個別の心情を描いてしまうと、悪役として成立しなくなってしまう。
非道な悪役と、実体のある生きた人物像を両立させる良い描き方だと思いました。
クローネは長すぎるかなと思いましたが、その分の効果はあったと思います。
この作品で一番良かった点かも。

その副作用として、レイが退場しないということもわかってしまいましたが、そこは仕方のないところ。

ノーマンは生きてそうな感じがしますが、どうなのでしょう。
別室で待機になった後の詳細は不明ですし。
男親の必要性もあるので、生き残る道はありそう。
遺伝的な多様性のためにも、ある程度の人数を維持する必要がありそう。

最終話で明かされるレイとクローネの関係は意外性があって驚いた。

ドンの投石で脱出可能なのであれば、ある意味めっさ逃げ放題なのでは。。
レーダーの性能は低いみたいだし。
筋力がなくても、ボウガン的なものか、投石機が作成できれば脱出は可能。
敷地内に森があるので、ロープを用意する難易度は高くなさそう。
脱出してしまえば、森と川があるので、サバイブは可能そう。

逃げる必要性に気付けるかどうかが肝だと思いますが、高い塀に囲まれていて外に出られないというのは不自然。
外から手紙が来ないのも不自然。
少なくとも、塀に登ろうとする子はたくさんいたと思う。

フィルはずっと謎っぽい扱いでしたが、結局のところ聡いというだけだった。
現時点では、単に思わせぶりだっただけ。
話が進んで、フィルたちの救出作戦が描かれたら印象が変わるかもしれない。

全員脱出にこだわっていたのに、エマが折れたのはちょっと残念。
あとでまた取り戻しに来るという選択は現実的で正しい。
ただ、エマは最後まで誰も見捨てないキャラだと思ってた。
ちょっとキャラがぶれた印象。
「全員救う、どうやって?」というのが物語の推進力にもなっていたので、多少荒唐無稽でも全員救った方が筋は通ったと思う。

イザベラの目的意識や行動原理がよく分からなかった。
単純に利己的で自分の長生き優先なのかな。
『抵抗を諦めてしまった人』という位置付けだと思いますが、むしろこの仕組みの維持に積極的に協力しているような印象。
それだけ望みのない世界ということかもしれませんが、レジスタンス的な生き方もあったと思う。
まだ話に出ていないだけで、実は現状打破のために抵抗の準備を重ねていたとかであれば良いですが、そうであればエマたちに協力しなかった理由の説明がつかない。

本に暗号を忍ばせていたのはエンディングに登場した人なのかな。
今後の展開が気になる。

外側の世界で生きている人類はいそうですが、それが描かれるかどうかは未知数。

どうしてブログを書いているのか

  • 文章を書くのが好き
  • アウトプットするのが好き(形になると楽しい)
  • 現実逃避(やりたくないことをやっていないことから目をそらすため)
  • 自分の考えをまとめるため
  • 自分が感じたことや考えていたことを忘れないため(日記)
  • 文章の練習

やらなきゃいけないことをサボっていると、記事の数が増える・・・。
公開を前提に書くことで、矛盾点や極論を排除したり、わかりにくい表現を改めるモチベーションになる。

  • ブログはあとから修正できる

だいたい手直ししたくなるので、あとから修正できないメディアは辛い。

「雨の日の女」について

好きな歌。
ボブ・ディランがどういう意図でこの歌詞を書いたのか、正確な解釈は知らない。

個人的な解釈として、「日常で遭遇する不運や他者の悪意、挫折などの残念な体験に対して、そんなことは気にする必要がないし、傷つく必要もない、ということを皮肉っぽく、暖かく歌った歌」かなと思っています。

他の人の解釈を調べる前に、自分の考えをまとめておきたくて、この記事を書きました。

歌詞は 公式ページ にあります。

この歌が歌っていること

日々生活していると、様々な辛いことに遭遇します。
備えていてもいなくても、タイミングを問わず、誰彼かまわず、大きな問題も些細な事件も。

何か辛いことがあると、「もしかして自分に責任があったのでは」という気持ちになって落ち込んでしまうことがあります。
もっと上手くできたのではないかとか、軽率すぎたのではないかとか。
ただ、本当のところは、その時点の自分では予測できなかったことも多いですし、済んでしまったことに対してくよくよしても意味がないことも多いです。

また、不当な攻撃を受けると、怒りや憎しみでそれに応えようとする場合もあります。
自分が被った損害を相手にも味あわせたい、償いをさせたい、怒っていることを表明することで相手の態度を改めさせたいなど。
ただ、多くの場合は、やり返したところで実質的な意味はなく、怒りの感情そのものが自分自身へのダメージになるように感じます。

そういったときに、「辛いことは不可避だし、責任を感じることはない」という気持ちにさせてくれる歌だなと思っています。

自分がいいことをしていても、何もしていなくても、自分のために行動をしていても、悲しい時でも、努力をしていても、大したことをしていなくても、何気ない日常を過ごしていても、存在しているだけでも、心を開いても、楽しんでいても、どんな時でも不幸は襲ってくる。
確かに最悪だけど、もう仕方がないし、楽しくやろうぜ、と。

歌詞の面白いところ

石を投げつけられるシチュエーションの羅列に規則性があったりなかったり、脈絡がはっきりせず、乱雑なところが良い。
歌詞が予測できなくて楽しいという面もあるし、実際に辛い体験をする場合も予測なんて立たないという点で歌詞の内容に沿った構成になっている。

石をぶつけられることに対して、ぶつける人間が悪いとか、抵抗しようというのではなく、無化しようという態度が皮肉っぽくて良い。

誰が石をぶつけているのか

「石をぶつける」というのは、普通は、特定の誰かが別の誰かに対してすることです。
ただ、この歌詞では、石をぶつけているのは「彼ら」とされており、特定の誰かが悪意を持って行っているという感じではありません。
「世間」と解釈しても良いと思いますが、衝突が起きる可能性のある相手は不特定にたくさんいる、くらいの感じかなと思います。

石をぶつけられるとはどういうことか

もちろん、文字通りに石をぶつけているという意味ではないでしょう。
心に傷を負うような体験をしたという意味かなと思います。

悪意を持って石をぶつけているのかは定かではなく、好意を持って行ったことが自分にとっては石をぶつけられているように感じるという状態も含まれているように思います。
歌詞には明確には書かれてはいませんが、誰かが石をぶつけている場合だけでなく、偶然発生した不幸なども範疇に入っているように思います。

「自分が傷つくような事態全て」のことを「石をぶつけられている」と表現しているのかなと捉えています。

誰もが石をぶつけれらるべきとは、どういう意味か

"must get" が「されるべき」なのか「されるに違いない(される運命)」なのか、英語の文法的な取り扱いには自信がありません。

いろんな解釈があると思いますが、以下の 2 つが相当しているかなと思います。

  1. 「非難されるところがない人間なんていない(石をぶつけられる理由がある)」
  2. 「非難されるところがない人間でも石をぶつけられるものだ(理由なんてない)」

「ぶつけられるべき」という言葉からは 1 が想起されます。
「非難されるところがあろうがなかろうが、石をぶつけられるものだ」というよりも積極的に「石をぶつけられる理由がある」と言っているように思います。

ただ、「皆が罰せられるべき存在だ」といったような後ろ向きの意図だけの歌詞ではないように思います。
歌詞の大半では、理不尽に石をぶつけられる例が歌われているので、2 の解釈の方が正しそうです。

ただし、「非難されるところがない人間」のことだけを歌った歌でもないと思います。
もしそうであれば、ほとんどの人はこの歌詞が歌っている人物から外れてしまいます。
直前に、自分が一人だとは思っていないとあるので、この歌が歌っている対象は我々全員です。

結論としては、2 がメインで、さらに 1 なニュアンスで捉えています。

曲名について

「雨の日」は、惨めな思いをしていることを意味していると考えて問題なさそうです。

雨は自然現象。
歌詞の内容が、悪意を持った特定の個人による攻撃についてではなく、偏在していて防ぎようのない不幸についてであることを意味しているようにも感じられます。

本来は、冷たい雨に打たれている状態を歌っているのだと思いますが、なぜかはわかりませんが、夏の日の雨のように、ぬるい温度の雨の印象があります。
歌の雰囲気がおおらかだからかもしれません。
暖かい雨 = 涙だからかな。

なぜ女性なのかはわかりません。
社会的な立場の弱い人間を意味しているのかなと思いますが、それはステレオタイプ的な見方かもしれません。

主題のブルースっぽさ

「不幸を歌い飛ばす」、「解決を諦めている」のがブルースっぽいなと思いました。
ブルースに詳しいわけではないので、勘違いかもしれませんが。

Little Girl Blue

雨の中の女性という点で、"Little Girl Blue" と共通点を感じます。
個人的には、コインの裏と表のような背中合わせの歌だなと思っています。

著作権について

  • この記事では、歌詞の翻訳はしていません
  • 歌詞への言及についても、正当な引用の範囲であると認識しています

内容に関係ない補足

ケムリクサの 3D プリント世界

たつき/irodori@ケムリクサ on Twitter: "月末ちょっとベコーンとなってたんですが、元気になってきました! 画像は遊びプリントLB。立体は網膜に焼き付いてるんですが触るのは初という不思議さ…… "

こんなところにヒントはあったんですねー。

ケムリクサ BD 1 巻見た(ケムリクサのテーマについて)

ケムリクサの BD 第 1 巻、見終わりました。
スタッフのオーディオコメンタリーで一番印象に残ったのは、ケムリクサは(作りたいというより)自分たちが見たいという気持ちで作っているということ。

一般に、よくある創作の動機は、「作ったものを褒めてもらいたい」という承認欲求的なもの。
自分の技術を見せたいとか、アイデアを褒めてもらいたいとか。

その欲求を満たすためには、外の人がどれだけ評価してくれたかが大事。
いいねをたくさん押してもらえるとか、たくさんの感想をもらえるとか。
認めてもらえなければ、モチベーションは上がらないし、続けていくことは難しい。

あるいは、ビジネスの目標を達成するために制作をする場合もあるかもしれない。
今はこういうものが売れ筋だから作りましょう、ユーザに受けるものを作りましょう。
市場にはこういうニーズがあります、お金は大事ですよね。
自分のスキルであれば、こうすればペイするかななど。

ただし、一度予測を読み違うと、誰にも何も残らなくなってしまう。

一方で、ケムリクサの制作の動機は、「自分たちが見たいから作った」。
好きなものが形になること自体が、制作の大きな目的。
創作のエネルギーは自分たちの中から湧いてきて、多少の障害があっても自律的に進んでいく。
たとえ、お客さんの受けが多少悪かったとしても、ビジネス的にそこそこだったとしても、作る理由は無くならない。

へんたつの焚き火の話でも、自分たちが楽しむために作っていたものが、お客さんに認められて広がっていったという話がありました。

へんたつ フル版 - YouTube

そういうところがクリエータとして良いなと思います。

その上で、キャリアやビジネスとしても大成功しているのは、本当に素晴らしいなと思います。

ただ、自分たちの欲求で駆動していく創作活動にも弱点はたくさんあります。
例えば、作りたいものを思うように作るアイデアが浮かんでこない(才能の限界、スランプ)とか。
自分の創作が誰かに強く否定されてしまい、挫折を味わったとか。
欲求が枯れてしまったとか、モチベーションが湧かなくなってしまったとか。
集団で創作する場合は、存分に腕を振るえるような仲間が得られないとか。
資金面などの要因により、安心して創作できる環境が確保できないとか。
方針の違いにより、活動が継続できなくなるとか(音楽性の違い的なやつ)。
他にもたくさん。

そういった障害があるからこそ、自分の「好き」をきちんと見つけて、それを離さないことが大事。
それを確認するために、苦しみを背負いながらも、仲間の後押しを得て「好き」を見つけたりんの物語が作られたのかなと思いました。